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丁家老寨青餅2012年プーアル茶 その1

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丁家老寨青餅2012年プーアル茶

■概要
製造 : 2012年4月09日
茶葉 : 西双版納州孟臘県漫撒山丁家老寨
製茶 : 丁家老寨の農家
茶廠 : 漫撒山の工房
工程 : 生茶のプーアル茶
形状 : 餅茶 385gサイズ
保存 : 西双版納―上海
当店のオリジナル品です。
+【当店オリジナルのお茶について】

■ はじめに
このお茶は、茶交易時代の西洋にむけてつくられた製法による、しっとりした風味の生茶です。
どなたにも美味しく飲んでいただけます。
この先の文章は読まなくても大丈夫です。

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

■歴史
雲南省の南のミャンマー・ラオスに接する西双版納は、1940年頃までどこに国境線があるのかも定まらない山深い辺境地でした。そのため記録に乏しく、今に語られる歴史といえば、茶馬古道をゆく交易キャラバンが5000メートル級の山々を越えてチベットの軍馬と交換したことや、北京の皇帝に貢茶が献上されたことなど、際立った話になります。
しかし、この土地のお茶は遊牧民や皇帝が求めたことよりも、都市生活者に求められていたことのほうが大きな意味を持っているはずです。
それでいうと、歴史は易武山に在りです。

明朝末期の1570年代に雲南省紅河州石屏県の漢族が南下して、ラオスとの国境を接する易武山や象明に移り住んだ記録があります。それにより喫茶文化の発展していた都市への流通が開け、山岳少数民族による野生のお茶の採集は、人の手をかけた栽培へと変化し、製茶が工夫され、生活のお茶は文化のお茶へと風味を変えたはずです。

1700年代~1800年代の西洋との取引が盛んになった茶交易時代、易武山のお茶づくりは隆盛を極めていました。ところが、そのお茶の詳細がわかりません。
どんなお茶がつくられ、どこへ運ばれたのか?
西双版納の深い山々から遠い目的地へむかうまでに、何度も転売されたり、記録に残せない取引があったためだと思われます。

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

1900年代になって、易武山のお茶づくりは世界的な戦争による需要の低迷に耐えながらも、戦後にはまた盛り返しつつありました。
しかし、1950年頃からの農業改革によって、茶業が国の専売公社制となります。それにより民間のお茶づくりは消滅し、職人の手の仕事はいったん途切れます。
今から振り返ると、この損失は大きかったと思います。お茶の味の再現は、職人の手の記憶なしには難しいからです。

国営メーカー時代の1950年代からは、農家が晒青毛茶(原料となる茶葉)をメーカーに供給するのみとなりましたが、それでも当時の一級品には易武山の茶葉が使われていました。
それから半世紀、2000年頃を境に茶業の自由化がはじまり、それに先駆けて昔のお茶づくりの再現が試みられました。
残された老茶(50年~100年前のもの)や、わずかな資料をもとにした試行錯誤の仕事です。その先鋒を務めたのが1995年に台湾人の投資と自治体の協力によってつくられた『真淳雅號圓茶96年』です。
【真淳雅號圓茶96年プーアル茶】

しかしその後が続きません。
自由化された茶業は飛躍的に発展しましたが、それは経済発展で生まれた巨大市場の、量と安さを追求するものでした。旬を外した雨の季節の茶葉、茶畑の若い茶樹、下手な製茶技術、産地偽装、嘘の歴史のでっち上げとなんでもありになり、昔ながらの仕事は息をひそめてしまいました。

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

■ 漫撒茶山(旧易武山)
当店のオリジナルをつくりはじめて3年目になります。
昨年2011年の易武山のお茶づくりは、旬の短いタイミングに新芽や若葉だけを摘む伝統技法の「挑茶」を試みました。
この経験からわかったことは、かなり昔から栽培の工夫がなにかあったはずだということです。昔の銘茶のような春いちばんの新芽や若葉は、そうでないと収穫できないからです。
【易武春風青餅2011年プーアル茶】

このことがきっかけで昔の栽培方法をもっと知りたいと思うようになり、手掛かりを求めて、2012年の春は易武山の古い地域である漫撒茶山を尋ねました。

易武山は現在ひとつに統合された広い地域となっていますが、かつて清朝の1800年代までは、易武山と漫撒茶山とがこの地域を二分していました。「丁家寨」・「一扇磨寨」・「弯弓寨」・「張家湾」などが漫撒茶山の古い集落で、「弯弓廟」として栄えていました。
1800年代の後半に漫撒茶山に大規模な山火事があり、おそらくそれが原因で衰退し、易武山に統合されています。
【西双版納の江北の茶山について】 (参考ページ)

易武山の中心の易武郷には、石畳と古い茶荘の建物が少し残っている老街があります。その傍の新しい大通りには役所や学校が構えられ、小さな町となって栄えています。
易武郷からラオスの国境を目指す路線に、「落水洞」・「麻黒」・「大漆樹」の寨子(集落)があります。この路線が現在の高級茶の栽培がもっとも盛んな地域です。大漆樹までは約10キロ。そのさらに奥へ続く山道をゆけば、漫撒茶山の一帯に入ります。

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

かつて老街の茶荘はこの道を馬をひいて茶葉を集めに行ったことでしょう。崩れた石畳が大漆樹のさらにもっと奥まで、今もところどころに残っています。かつてこの山奥に石畳が途切れずに続いていた事実は、当時の茶業の繁栄ぶりを物語っています。
大漆樹の農家の案内で、この道をたどって漫撒茶山にせまる奥地まで行ったことがありましたが、その先は密林を山越えしなければならず、断念しました。

車の通る幹線道路を行くとなると、易武郷からぐるっと迂回して北東の方向を目指します。路線バスでは1時間ちょっとの道のりです。
メコン川の支流「磨者川」に沿った谷間のちょっとした平地に、水田や段々畑のある美しい景色がつづきます。
この古い街道のその先は、ベトナムとの国境に近い雲南省紅河州の建水県や石屏県につながっています。そこはかつて易武山に移り住んだ彝族(イ族)や漢族の人々の故郷です。

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

近年の大開発で急激な変化を見せる西双版納ですが、奥地に入るとタイムスリップします。バスの乗客は少数民族が多くなり、話す言葉もそれぞれの民族のものになり、東南アジア山岳地帯の雰囲気が色濃くなります。

「ここで降ります!」
と、知人がバスを止めたのは、田畑が広がるだけで集落もなにもないところでした。向こうに流れる小川のせせらぎと小鳥のさえずりしか聞こえてきません。
よく見たら、ちょっと先に農道が合流しています。
しばらく待っていたら2台のバイクが迎えに来ました。

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

迎えに来た農家の主人は言いました。
「あの山の麓に新寨があり、いくつか山を越えた上のほうに老寨があります。現在われわれの住んでいるのは新寨で、老寨までは10キロほどの道のりです。今日はもう遅いので明日の朝に登りましょう。」

近年の政策で、山奥の僻地にある村の多くが幹線道路の脇へと引っ越しさせられています。経済や教育の格差、それに電気や電話などインフラの格差を縮めるのが目的です。
しかし、丁家寨の村人はもともと山と谷を季節によって住み分けていました。お茶の季節は山の上へ、米の季節は谷に降りて生活していたのです。つまり新寨と老寨が昔からあるのです。

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

山と谷の高低差のために自然の恵みはそれぞれ異なり、易武山の茶農家にしては食べものが豊富です。茶で稼いだお金で他所から食べものを買うのではなくて、すべて自分たちの土地にあると農家の主人は言います。
「丁家寨は人口が少ないわりに農地が広いのです。ここの水田は二毛作できるのに一毛作しかしません。人手が足りなくて稲刈りが間に合わないからです。土のゆっくり休んだ田んぼは美味しい米ができます。」

新寨から見える谷間は春の霞に淡く彩られ、なんとも美しい空間でした。うっとり眺めているうちにご飯ができていました。
「今日は鹿肉があります。村の人が撃ってきました。丁家寨の山には昔はとくに鹿が多くて、そこらじゅうで鹿の子がピョンピョン跳ねていました。」 

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

鹿肉と臓物の炒めもの・山鳥を燻製にしたもの・川の小魚の干物の唐揚げ・日本のワサビとそっくり味の山菜とピーナッツを和えて叩いたソース・自家製の腐乳(豆腐の発酵したチーズ状のもの)・地鶏の卵の茶碗蒸・なぜか蟻がたかるので麻蟻菜と呼ばれる苦い山菜・蚕豆の炒めもの・牛肉干巴(ビーフジャーキー)・老母鶏のスープ・青菜のスープなど多彩でした。

食べながらこれまでの経緯を農家の主人に話しました。
昔の易武山のお茶の風味を求めていること。昨年に易武山麻黒村大漆樹の農家で挑茶(新芽と若葉だけを選ぶ)を試みたこと。ラオスのフランス人にお茶を売ったことがないか聞きたいこと。などなど。
農家の主人は、しばらく考えているようでした。
「まずはうちのお茶を飲んでみてください。」

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

湯を注ぐだけで易武山独特の香りがフワッと広がりました。甘味が強く滋味があり、喉越し滑らかで、余韻によどみがありません。しかし、茶葉はやや成長して大きく開き、長い茎がくっいて、いかにも見かけの悪い感じがしました。同じ易武山でも麻黒村のならこうはなりません。

「丁家老寨の春の茶葉はもうかなり成長しているのでしょうか?」
こう聞いてみると、
「いえ、2日前からようやく春いちばんがはじまったところです。ここの発芽は麻黒村より10日間ほど遅いのです。」
と、農家の主人は答えました。
「それにしては葉が大きく開いて、茎が長いですね。」
そう返すと、農家の主人は今朝摘みたての鮮葉をもってきて見せてくれました。

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

鮮葉もまた葉が大きく開いて、茎が長く育っています。
「これが丁家寨の特徴なのです。茶摘みの仕方が違うというか、とにかくこういうふうになってしまいます。なぜこうなるのかは、明日に現場を見たらわかると思います。」

一般的には葉が大きく開いたり茎が長くなるのは雨の季節の特徴なので、まだ雨の降らない3月中旬にこうした形の茶葉を見るのは珍しいのです。
そうしているうちに、農家の家族が村の老人をひとり呼んできました。
87歳のチャキチャキの江戸っ子のようなお婆ちゃんです。

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

「あんたかい? ベトナムのことを知りたいアメリカ人は?」
「いえ、日本人です。」
「そうだよ、ラオスを通ってベトナムまで茶を運んで売ったのさ。フランス人に売ったんだ。」
「フランス人に売ったお茶は、どんなお茶ですか?」
そう聞くと、お婆ちゃんはこう答えました。
「同じ晒青毛茶さ。あのときは揉捻してから一晩堆積萎凋したよ。そのほうが甘くなるからね。それに餅茶にはしなかった。大きな竹籠に毛茶を詰めてね、こうして足で踏みつけて押し固めたよ。」
「どういうルートで運んだのですか?」
「ここの村人(漢族)がポンサーリー(ラオス)まで運んだんだよ。この裏山を越えたら二日か三日だから。その先はイーサーン人(泰族の系統の人々)が運ぶんだよ。ライチョウ(ベトナム)まで。」
「いつ頃の話ですか?」
「1950年より前だよ。フランス人がいなくなる前。人民軍が丁家老寨に駐屯地をつくる前。」
「その当時国境を超えてベトナムへお茶を売るのは、政府は許したのですか?」
「許すもなにも辺境地だからね。役人はひとりも来なかったのさ。」

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

この話にはいろいろ想うところがあります。
ベトナムやラオスがフランス領となっていた1880年頃から1950年頃まで、漫撒茶山や易武山のお茶が大量にラオスに流れていたとしたら、当時の指定貿易港であった広州や廈門を通らず、つまり清朝政府(もしくは中華民国)やイギリス領の通関をスルーして、メコン川を下ったか、もしくはハノイのトンキン湾からお茶が海を渡っていたことになります。当時ヨーロッパやアメリカに大量に流通したとされる出どころのわからない密貿易茶の一つだったのかもしれません。

1897年に清朝政府は易武郷に通関を設けた記録があります。茶に税をかけるためです。しかし逆にそれが税を逃れるルートを切り開いた可能性があります。広東出身の貿易商たちがベトナムのライチョウに拠点を構えた記録があるのもこの頃に一致しています。
(※この件については別途調査の上「お茶の歴史とプーアル茶の歴史」にて話題にする予定です。)

丁家老寨青餅2012年プーアル茶

つぎの日の朝、バイクで山に登りました。
いよいよ丁家老寨の茶樹と対面します。

■その2 采茶 (まだつづきます)
+【丁家老寨青餅2012年プーアル茶 その2】


丁家老寨青餅2012年 1枚 380g


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